
依存しない方法──そんなふうに検索をしてしまうくらい、誰かに執着してしまう自分を責めている人が、きっとたくさんいるのでしょう。
自立して、強くなって、もっと軽やかに生きていきたい。
私は依存心が強いから承認欲求も治らないんだ…!
そう思えば思うほど「依存してしまう私」がいけないような気がしてしまう。
けれど実は、「依存ってなんだろう?」という問いをすっ飛ばしたまま、依存を否定してしまうことが、かえって依存の苦しみを深めてしまうこともあるのです。
この記事では、依存しない方法を一方的に提示するのではなく、そもそも“依存とは何か”を問い直すところから始めてみたいと思います。
依存は本当に悪いことなのか?では、どうすれば自然に、緩やかに、依存から卒業していけるのか?
よくわからないまま、責めていた自分と静かに仲直りするための視点を、ここでいくつかお渡しできればと思います。
Contents
そもそも「依存」ってなんだろう?
まずは、“依存しない方法”を探す前に、そもそも「依存とは何か?」という問いからはじめてみましょう。
依存という言葉は、実は非常に広い意味を持っています。
たとえば、厚生労働省では次のように定義されています。
厚生労働省が定義する「依存・依存症」とは
依存とは、ある対象(物質・行動・人など)に心を奪われ、それなしではいられなくなる状態のことです。とくに健康や生活に支障が出ているにもかかわらず執着をやめられない場合、「依存症」と呼ばれます。(厚生労働省より)
① 物質依存:アルコール・薬物など
② プロセス依存:ギャンブル・スマホ・買い物などの行動
③ 関係依存(人間関係への過剰な執着):恋愛・世話焼き・親子関係など
私たちがこの記事で扱いたいのは、特に③の「関係依存」の領域です。
恋愛・パートナーシップ・家族など、“人”との関係の中で起こる依存について、もう少し深く見ていきます。
私にとって「依存」とは──責任の預け先のズレ
一般的な定義に対して、私自身はこんなふうに依存を捉えています。
依存とは、本来自分が引き受けるべき責任を、外側(人・世界・環境など)に預けてしまっている状態。
- 自分の感情の責任を、相手の言葉や態度に預ける
- 自分の幸福の責任を、「彼がいるかどうか」に預ける
- 自分の人生の選択を、世間や家族の価値観に預ける
こうした「責任の預け先」がずれているとき、人は無意識のうちに依存という構造に巻き込まれていくのです。
対になる「自立」とは、責任を取り戻すこと
一方で「自立」とは、責任を“取り戻す”こと。
自分の感情に自分で付き合い、自分の行動や選択の理由を自分で理解していくことです。
ただし──ここで大切なのは、依存=悪/自立=善という単純な対立構造ではありません。
自立が行き過ぎると「孤立」になりますし、依存も適切なバランスであれば「相互依存」という健やかな形になり得る。
大切なのは、「どこに預けすぎていて、どこに戻せばいいのか?」という問いを持つことではないでしょうか。
依存は本当に「悪いもの」なのか?
依存はダメ!自立しよう!
そんなメッセージが当たり前に広まっている今、多くの人が「依存してしまう自分」を責めながら、苦しんでいます。
でも本当に、依存は“すべて悪いこと”なのでしょうか?
それとも、見逃されがちな前提が、私たちを縛っているだけなのでしょうか。
依存とは「責任の委ね先」であって、罪ではない
依存は本来、人が生きていくために必要な構造です。
私たちの食卓を見れば、そのことがよくわかります。
今朝の味噌汁に入っていた鮭──それを自分で海に獲りに行った人は、ほとんどいないでしょう。
お米を一粒一粒育て、精米し、炊き上げた人も、実はあなたではないかもしれません。
つまり、私たちは日々、他人の仕事と暮らしに“依存”して生きている。
医療も物流も、教育も農業も──社会とは、「適切な依存の持ち寄り」で成り立っている共同体です。
だからこそ、依存そのものを“悪”と断じてしまう前に、どのような依存が健全で、どのような依存が危ういのかという視点が必要なのです。
NGなのは「行き過ぎた責任放棄」としての依存
問題は、「依存すること」ではなく、どれほど自分の責任を外に委ねてしまっているかです。
本来自分が引き受けるべき感情・選択・生活・安全……そうした“内側の領域”までも他者に丸ごと預けてしまうと、人は自分の足で立つ感覚を失い、関係性の中でのバランスを崩していきます。
だからこそ重要なのは、「責任の分配」を丁寧に見直すこと。依存が悪なのではなく、「過度な依存」こそが関係性を歪めてしまうのです。
なぜ人は、依存してしまうのか?
ではなぜ、人は依存してしまうのでしょうか?
え?自立できてないから依存しちゃうのでしょう?
と片づけてしまうのは簡単ですが、その背景には、もっと深い“心の構造”があります。
自分の中に「芯」がないとき、人は寄りかかる
依存とは、内側に“芯”が通っていない状態で起こりやすいのです。
たとえば、プルンプルンのゼリーを想像してみてください。
甘くて食べやすくても、芯がなければすぐに形が崩れてしまいます。
それと同じように、自分の中に軸や支えがないと、人は不安定になりやすい。
すると、より安定していそうな“誰か”に自然と寄りかかろうとしてしまいます。
これは意志の弱さではなく、生き残るための本能的な防衛反応です。
つまり、依存とは「私がダメだから」ではなく、「揺らいでいる時に、なんとか生きようとした結果」だとも言えるのです。
依存の“対象”を取り上げても、構造は変わらない
依存をやめさせるために、依存の対象を取り上げるという方法があります。
- ギャンブル依存者を施設に隔離する
- ストーカーに接近禁止命令を出す
- 子どもに過干渉な親を物理的に引き離す
確かに一時的な効果はあるかもしれません。
でも「何かがないと不安定になってしまう」という、根本が変わっていなければ依存対象は別の何かにすり替わるだけです。
ギャンブルがダメならアルコールに。
恋人に拒絶されたなら、次は子どもやSNSに。
なぜなら、その人の中にある「芯のなさ」──自分の内側に頼ることができないという状態自体が、まだ解消されていないからです。
依存から自然に卒業するための3ステップ
依存をやめたい。もっと自立したい。
そう思っても、「じゃあ今すぐ依存を手放しましょう」と言われたら──きっと、心のどこかでつまずいてしまうはずです。
なぜなら、依存とは「好きでやっている行為」ではなく、自分の中に芯がないとき、生存本能として出てくる防衛反応だからです。
つまり、ただ“やめる”のではなく、芯を立てていくこと=寄りかからなくても立てる自分を育てることが必要なのです。
ここからは、依存の仕組みをゆっくりとほどきながら、自分の内側に芯を立てていくための、3つの視点をご紹介します。
焦らずに、ただ静かに──“責めないまま、手放していく”ための視点を受け取ってみてください。
ステップ①「依存の仕組み」を知る
なぜこんなに彼がいないと不安になるのか?
どうして“ひとり”でいると、自分がぐらついてしまうのか?
依存の真っ只中にいるとき、人は自分が“何にしがみついているのか”もわからなくなってしまいます。これは単なる甘えや意志の弱さではなく、心の構造のゆがみから来ていることが多いのです。
特に人間関係における依存は、愛着のパターンや境界線の曖昧さと深く関わっています。
「自分と他者の感情や責任の境目が曖昧になる」ことが、依存を強めてしまう要因の一つです。
でも、今このコラムに出会ってくれているあなたは、すでに“知る”という第一歩を踏み出しています。
芯がないとき、人は外側に寄りかかる
この依存構造の基本原理を理解できただけでも、あなたの中には、確かに“内的な目覚め”が起きはじめているのです。
ステップ② 承認欲求の素を見極める
依存を手放すには、ただ我慢するのではなく、内側に抜け落ちていた“自立の芯”を見つけて、少しずつ育てていくことが必要です。
この芯には、実はいくつかの種類があります。たとえば──
- 自分の考えを信じる「思考の芯」
- 自分の存在を肯定する「存在の芯」
- 自分が愛されると感じる「関係の芯」
これは、承認欲求がどこに強く偏っているかとも関係があります。
恋愛では依存的でも、仕事では指示的で安定している人もいます。
逆に、社会的には責任あるポジションにいても、親密な関係では見捨てられ不安や過剰適応に苦しんでいる人もいます。
つまり、人はジャンルごとに「不安定さ」を持っているのです。
それを「私は全体的に依存体質なんだ」と一括りにしてしまうと、改善すべきポイントが見えづらくなってしまいます。
自分にとってどの芯が特に不安定なのか?どの領域で自分が自立できていないと感じるのか?
そうやってピンポイントに見極めることが、回復への現実的な道筋になります。
ステップ③ 自己承認=自分で自分を認めるトレーニング
人間関係の依存が強まると、多くの人は無意識のうちに、相手に対してこんな問いを投げかけています。
私は、ここにいていいですか?
それは、自己肯定感の低下と結びついた状態とも言えます。
自分の存在価値や“愛される資格”を、他者の反応や承認に依存してしまう構造です。
特に、過干渉な家庭環境や感情の抑圧があった人は、他者の目に過敏になりやすく、自分で自分を承認する感覚が育ちづらいとされています。
でも本当は、その答えは「外」ではなく「内」にしかありません。
他人に「あなたは大丈夫」と言われて安心するのではなく、“私は、私を認められるか?”という問いに少しずつ立ち返っていくこと。
自分の内側に安心の源泉をつくることが、他者評価から自由になる鍵となります。
それは地味で、成果の見えにくいプロセスかもしれません。
けれどこの、「証明の依存」を自分のもとに返していく作業こそが、芯を取り戻すという生き方の、確かな実践なのです。
今日からできる小さな実践例
頭では理解しても、すぐには行動に移せない──そんなときこそ、「ほんの少し」の実践が力になります。
ここでは、依存から卒業していくために、今日からできる小さな行動をいくつかご紹介します。
無理なく、淡々と。あなたのペースで試してみてください。
①「私はなぜ不安なんだろう?」と問いを書き出してみる
ノートやスマホのメモに、自分の不安をそのまま書いてみる。
書くことで「不安の正体」が少しだけ輪郭を持ちはじめます。
ポイントは、“正しく書こうとしないこと”。書き出す行為そのものが、自分との対話になります。
② 誰かに見てもらう前に「私自身が私を肯定できるか」考えてみる
SNSで誰かに褒められる前に、恋人に大丈夫だよと言われる前に。
「私、自分のことをどう思ってる?」と内側に問いかけてみてください。
その問いに“うまく答えられない自分”に気づくことも、大切な一歩です。
③ 朝いちばんに、深呼吸とともに「今日の私」に挨拶する
ほんの数秒でもいいから、身体と呼吸に意識を向ける。
呼吸の速さ、肩の緊張、胸の奥のざわつき──“いまここ”に戻ってくる感覚を持つだけで、他人への過剰な意識が、ほんの少し引いていきます。
④ 「誰かの評価で揺れたとき」のメモをつけてみる
たとえば、LINEの返事が遅いときに焦った自分。友人の言葉に過剰に反応してしまった瞬間。
そんな“揺れた瞬間”を書き留めていくと、「私は何を証明しようとしていたんだろう?」という問いが生まれます。
これは、自分の芯を育てるための大切な材料になります。
⑤ 「誰かを頼る」と「責任を預ける」を分けてみる
相談することや、弱さを見せることは依存ではありません。
でも、判断や感情の責任まで全部預けてしまうと、自分の軸がどんどん薄れていきます。
「これは頼っただけ? それとも預けすぎた?」そんな問いを、あとからでいいので静かに投げかけてみてください。
まとめ|“芯を立てる”という生き方へ
依存とは、本来とても人間的な反応です。
誰かに寄りかかってしまうこと。誰かの言葉でしか、自分の存在を信じられなくなること。
それは、自分の内側にまだ“芯”が育っていないだけかもしれません。
だからこそ、依存を責める必要はありません。大切なのは、その構造に気づき、少しずつ、自分の内側に責任を返していくこと。
私はここにいていい。
私は、私を信じてみてもい。
その言葉を、誰かに証明してもらうのではなく、自分で自分に返していくという選択。
それこそが、依存から卒業していくということの、本当の意味ではないでしょうか。
完璧に芯を立てる必要はありません。小さくて、柔らかくて、ときどき折れてもいい。
でも、それが“自分の手で立てた芯”なら、あなたはきっと、誰かに振り回されない場所で、もっと自由に、深く、つながっていけるはずです。
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